作曲家であり、モバイルオーディオメディアを用いて作品をつくるサウンドアーティスト、ダンカン・スピークマン。レジデンス中は、伊勢市内のあちらこちらであらゆる音を採取していました。
伊勢で笙の音を初めて生で聞いたことは、最も心に残る体験だった
ブリストルをベースにアーティスト、作曲家として活動しています。主に都市や日常空間を舞台に、音を通してその場所や日常の新しい体験を生み出すことで、それまでと違った形で自分の周りの環境を見ることを促す作品をつくっています。
私は今、私たちの時間の概念がどのように気候変動問題やアントロポセン(人類の時代)の捉え方に影響されたり、影響を与えたりしているのかを探っています。私たちは今複数の時間軸が同時に存在する中を生きているという感覚があります。私たち人間が日々を過ごす時間軸と、より大きい地球規模の変化でみる時間軸、さらに目に見えない程小さな動物たちの時間軸もあります。現在の世界が過去の行動に基づいた結果で形作られているとしたら、私たちのいまの行動は未来にどんな痕跡を残すのでしょうか。
この視点から日本の音楽を見ると、西洋音楽とは異なるアプローチで時間を捉えています。時間への異なるアプローチが作曲にどのような影響を与えるのか探求したいと思ったのと同時に、「人は自然の一部である」とする神道思想が西洋における「人と自然は別」とする考え方と違うので、もっと知りたいと思いました。
伊勢では、神社の伝統的な歴史がこの地域の文化活動に強い影響を与えていました。神事や場所が大切に継承されていて、我々の知る直線的に進む時間とは異なる時間の概念があるように感じました。伊勢神宮では20年ごとに社殿を建て替えます。それによって時間の経過とともに朽ちたり成長したり、進歩するといった概念によらずに、いつも同じ時空に戻ってきます。この感性はとても興味深いものでした。
もう一つ驚いたのは、伊勢の街を移動していると、何千年も前の神社や古い街並みの先にアメリカ的な大型ショッピングモールや高速道路が現れ、またもうしばらく行くと川や山、海があることでした。訪れる前は、伊勢は全域が神宮のような風景なのだろうと思っていましたが、実際には街の環境や表情、風景はさまざまで、少し歩いただけでも急激な変化が見られました。
内宮でお神楽奉納をした際に笙の音を初めて生で聞いたことは、今回最も心に残る体験でした。笙の演奏者の話によると、笙には人間の可聴範囲や録音機の範囲を超えた音域があり、耳で聞くより感覚的な音体験だということです。内宮での演奏は、笛や太鼓、笙、篳篥(ひちりき)など複数の楽器によるアンサンブルでしたが、なかでも笙と篳篥の2つの楽器の音に圧倒され、正座の姿勢が苦でなければ何時間でも聞いていたいと思いました。荒々しい質感の篳篥の音に対して、よりピュアな笙の音色、この2つの楽器の驚異的な音色が、雅楽特有の音空間を創出していました。
今回はたくさんのプログラムが次から次へと用意され、体験としては充実したものでしたが、私は音を扱う作家なので、その場に一定時間佇んで周囲の音に耳を傾ける時間が十分とれなかったことは残念でした。でもユニークな発見もありました。儀式が実際にどのように執り行われ、音楽がどのように演奏されるかを体験し、それが人々の暮らしにどんな意味があるのかを理解する機会として、こうしたレジデンスプログラムは意義があります。そこでは対話がとても重要になってきます。
滞在中、神は見えないけれど存在するという話に始まり、ものに神が宿るとはどういうことかをめぐって、私たちはかなり議論をしたのですが、見えないものとの関係を示す面白い出来事がありました。海女を訪ねて海へ行ったときのことです。道路沿いのガードレールの薄い金属にコンタクトマイクを取り付けたところ、それが海と共鳴していることに気が付きました。海から伝わる音波がレールを振動させ、その振動をコンタクトマイクが拾ったのです。ものに宿る見えない神と音の関係について考える面白いアプローチだと思い、その日以来、コンタクトマイクで風、車、いろいろなものの内部共振を録音しました。大きな台風が通り過ぎた日は、まるで街中が振動しているようでした。
この集めた音の素材をどうするかはまだ決めていませんが、笙の演奏家の話を思い出します。雅楽のアンサンブルに指揮者はおらず、互いの呼吸の間でテンポを計るのだそうです。曲の速度は演奏者同士の関係性に委ねられている。このことをもっとよく考えてみたいと思います。
雅楽はもともと神に日々の出来事を報告するためのものでした。日常の生活音を録音したこの音もまた、誰かに何かを伝えるためのものかもしれません。